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zoom RSS アヘンは日本皇軍の謀略資金源

<<   作成日時 : 2008/06/10 15:33   >>

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読書といったら鴎外、藤村、漱石、龍之介、直哉、治、康成……といった筑摩の文学全集に納められている“純”文学しか読まず、英治も風太郎も周平も、遼太郎さへも知らず、まして政治や経済の書はわれに無関係と思い、これからの文学は芥川賞受賞作かと考えて、近年は受賞作品を努めて読んでみたものの、なんとも私には理解できず、ついに読書はやめることにしていたのでした。しかし、どういう風の吹きまわしか、今年の4月と5月は、散歩や温泉、囲碁やブログの合間に、珍しくも私の第二のふるさと”満州”に関わる以下の4冊を読破したのでした。

風の払暁 満州国演義T』(船戸与一著・新潮社・2007年)
事変の夜 満州国演義U』(船戸与一著・新潮社・2007年)
阿片王 満洲の夜と霧』(佐野眞二著・新潮社2005)』
阿片王一代 中国阿片市場の帝王・里見甫の生涯』(千賀基史著・光人社・2007年)


私はこれまで1928年(昭和3年)の張作霖暗殺鉄道爆破事件と、1931年(昭和6年)の柳条湖鉄道爆破事件とは同一事件で、いわゆる満州事変は張作霖の暗殺から始まったと思い込んでいたのでしたが、3年もの間があったことを初めて知りました。また、馬賊の中には日本人が、しかも大和撫子までがいたことにもおどろき、それ以上にびっくりしたのは、関東軍や中国派遣軍、そして興亜院といったわが国組織の謀略工作資金が、莫大なアヘン収入によって賄われていたということでした。

考えてみると、よそ様の土地に出かけて、その土地の無秩序さに乗じて、私たち日本人の利権を拡大するためにはどうしたって謀略という手段が必要なのでしょう。ただ手をこまねいていたのでは利権の争奪にうごめく軍閥跋扈のかの地では跳ね飛ばされるばかりですから、それに負けない権謀術策を弄する必要があったに相違ありません。そのための資金、それは蒋介石たちも同じだったのですが、頭のいい関東軍参謀たちが次々とその利権を獲得し、満州国を樹立し、汪兆銘国民政府(1940〜1944)を作るところまでうまくすすめることができたのでした。


ところで、関東軍のアヘン謀略資金工作には岸信介や東条英機も深くかかわっているのでした。

1937年(昭和12年)3月、関東軍の熱河アヘンを天津で売りさばいている里見機関の里見甫(はじめ)のところに、満州国実業部総務司長の岸信介と同主計処長の古海忠之がおとずれ、関東軍参謀総長東条英機からの謝意と熱河アヘン取扱量のさらなる増大を伝えます。(千賀氏の『阿片王一代64〜70ページ

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          「私は軍のためにやるのではない。満州国の掲げた建国の理想、五族協和のために、あえて魔道に入る」といっていたとか。

また、同年10月、古海忠之が甘粕正彦と椎名悦三郎を連れて里見に会いに天津まで来ます。目的は上海特務機関が満州国のアヘン政策を真似て里見にアヘン販売の依頼をしている、そのことへの牽制でした。(79〜88ページ

しかし、結局は政府が興亜院という新しい部署を作ったのて、里見は軍内部の利権の争いから避けられ、上海に移って、アヘンの販路をさらに拡大することになったのでした。

熱河アヘンは関東軍が押さえているので、中支派遣の日本軍は新しくイランアヘンを輸入することになりました。

それでは、『阿片王一代』付録の年表から、イラン・アヘンの輸入についての記録を抜き出しておきます。


1 1938年(昭和13年)4月、三井物産、イランか阿片978箱をシンガポール丸にて上海に輸送

2 1939年(昭和14年)2月、三井物産、イランか阿片972箱を赤城山丸にて上海に輸送

3 1939年(昭和14年)4月、三井物産、イランか阿片1000箱を赤城山丸にて上海に輸送

4 1939年(昭和14年)10月、三井物産、イランか阿片1000箱を玉川丸にて上海に輸送

5 1940年(昭和15年)11月、三井物産、イランか阿片500箱を最上川丸にて上海に輸送

6 1940年(昭和15年)12月、三井物産、イランか阿片500箱を加茂川丸にて上海に輸送



最初のイラン阿片978箱のアヘンは70、416キロの数量なのだそうで、この膨大なアヘンを上海特務機関の首脳は藤田勇と里見甫の2人に二股かけて販売を依頼します。

その結果、藤田は6割に当たる550箱(39600キロ)を販売してその売上550万円を、里見は300箱を販売して400万円を上海特務機関に上納します。この最初のイランアヘンで軍は合計950万円、約1000万円という巨額の資金を手に入れたのでした。

なお、この藤田という人物は新聞記者出身で、満州馬賊張作霖と組んで阿片密売を行い、そこで得た巨額の利益で東京毎日新聞の経営再建を引き受け、社長に就任した人物です。アヘン販売の経験を買われて依頼され、この販売で220万円もの利益を得ています。それに比して里見の方は1割り程度の手数料しかとらず、私利私欲のない人物なので、軍は中国アヘン市場を以後里見一人にまかせ、里見は後世“中国阿片王”と呼ばれるようになったのでした。

1946年(昭和16年)、大東亜戦争が勃発し、アヘンの輸入はできなくなり、里見は宏済善堂という名目上はアヘン中毒者を更生させる組織、実質はアヘンの販売組織から手を引き、優雅な余生を上海で送っていたのですが、日本の降伏の後は、8月20日の特別機で日本にもどり、A級戦犯として取り調べは受けるものの起訴はされず、その後は他の満州に関係した人たちとは異なり、公的な職を一切せず、平凡な市井人として、1965年(昭和40)、68歳で波乱の多い生涯を閉じたのでした。

千葉県市川市にそのお墓はあり、墓石の表は岸信介元総理が揮ごうし、裏面には東亜同文書院の同窓による以下の銘が刻まれているとのことです。


凡俗に墜ちて 凡俗を超え 
名利を追って 名利を絶つ 
流れに従って 波を掲げ 
其の逝く処を知らず



其の逝く処を知らず」とは今天国なのか地獄なのかわからないという意味だそうです。彼が愛した中国人たちを麻薬漬けにした点では確かに地獄落ちですが、彼は児玉誉士夫、笹川良一といった有象無象とは違って私利私欲のために動いたのではななく、謀略資金づくりを手伝うことで、”東亜病夫”の中国がいくらかでもよくなると信じていた点、戦後は潔く贖罪の心で生きたという点でいまは天国にいるかもしれない、どうもそういう意味のようです。

なお、東条英機は1935年(昭和10年)に関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1937年には関東軍参謀長となり、その後は陸軍次官や陸軍航空総監、陸軍航空本部長、そして陸軍大臣を務めますが、大臣になってからも対満州事務局総裁を兼任し、満州のアヘン利権に深くかかわりつづけた人物のようです。



 (「歴史は小説よりも奇なり」というが、今度は甘粕正彦と石原莞爾を読んでみようと、にわかに読書づく ネズミ)

≪参考≫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB
http://art-random.main.jp/samescale/069-1.html

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