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zoom RSS 「愛する」ことよりも「大切にする」こと―本田哲郎『聖書を発見する』(2)

<<   作成日時 : 2011/02/11 15:25   >>

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 本田哲郎神父の新著『聖書を発見する』(岩波書店)、私は序章の「聖書に問う」と第一章の「どこに立って聖書を読むか」を読んだ後、どうしても終章の「人を大切にする」を読みたくなりました。なぜかというと、小タイトルに「『愛する』ことよりも『大切にする』ことを」というのが、載っていたからです。

 教会に行くと神父様の説教には「愛」という言葉がしばしば登場します。『新約聖書』の目次を眺めても、「敵を愛せよ」(2回)「愛徳の勧め」「互いに愛し合いなさい」「イエズスの愛しておられた弟子」「神の愛」「生活の基本原理である愛」「隣人愛」「最高の道である愛」「自由と愛と『霊』」「キリストの愛を知る」「相互の愛と謙遜」「より完全な兄弟愛」「兄弟愛」(2回)「愛と信仰のおきて」「神は愛である」「真理と愛」と17項目の小タイトルが出ています。

 私自身の日常の生活を振り返ってみると、自分の本心からの言葉として「愛」とか「愛する」とかを口にしたことは一度もなかった(?)、そんな気がするのです。

 なぜなら、「愛」とか「愛する」とかは純粋なヤマト言葉ではない、どうもそんな感じがまずするからです。「愛」という漢字の音「アイ」は、中国語もaiです。漢字にはふつう音と訓があるのに、この漢字には訓はありません。その意味に該当する日本語が見つからないからでしょうか。この語を口にするとき、私は「love」とか「loveする」というときの感覚とどこか似ている、そう感じるのです。

 私がなかなか神を信仰する気になれない理由の一つは、ひょっとして「敵を愛せよ」とか「汝の隣人を愛せよ」とかいうあのおきての不可解さにあるのではないのか、そんな気さえもするくらいです。

 さて、本田神父は「汝の隣人を愛せよ」という語句をなんと解釈しているのでしょうか。本田神父の聖書訳は「隣人を自分のように大切にしなさい」だそうです。

     ヘブライ語のアハバー、ギリシャ語新約聖書ではアガペー、両方とも愛と訳されてきたことばなのですが、
    それをわたしはあえて「大切にする」と言い換えています。なぜか。「隣人を自分とおなじように愛しなさい」と
    いうことを具体的に実践できますか。見ず知らずのだれかれを、愛していると言えますか。好きだと言えます
    か。わたしたちの愛の体験的なイメージは、たいていは家族の中で得たもの、あるいは自分の連れ合いとの
    出会いで経験したものにほかなりません。それはあくまでも限定的であり、個別的な関係性です。
     それをだれかれの別なく、あの人にもこの人にも、向けることは不可能なことであり、また、してはならない
    ことなのです。もし、できると言う人がいたら、やめてくださいと言いたい。社会がめちゃくちゃになってしまい
    ます。自分の妻を、あるいは夫を愛しているというその二人が、お隣のご主人、奥さんもきちんと愛し、そのま
    た隣の、そしてまた電車に乗って見かけたこの人もあの人もって、広げていくとしたら……。愛の概念はだい
    たいそうしたものです。(P226〜7

     ギリシャ語のアガペー、ヘブライ語のアハバー、これらを「愛、愛する」と訳すのはやめて、「人をその人とし
    て大切にする」と変えることをあらためて提案したい。事実、日本の聖書翻訳の歴史の中で、アガペーは「お
    大切」と訳したことがあったようです。当時の日本語で、アガペーにいちばんふさわしい表現と思われたので
    しょう。それがいつの間にか「愛」という訳語に変わってから、家族や恋人への愛(エロースもしくはストルゲ
    ー)と、だれであれ相手をその人として大切にすること(アガペー)とが混同され、実践にあたって、ありえない
    ことへの偽善的な努力をしてしまうことになっているのです。(P229

 どうです、このわかりやすさ。コロンブスの卵で、言われてみるとその通りで、どうして今ままでだれもそれに気づかなかったのか不思議でさえあります。

 それではローマ人への手紙13章8-10節「隣人愛」の個所を、私の手持ちのフランシスコ会訳の新約聖書の訳Aと本田訳Bとを列記しておきます。

   A 互いに愛し合うことのほかに、だれに対してもどんな負い目もあってはなりません。他人を愛する者は、律
    法を完全に果たしているのです。「姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。むさぼっては
    ならない」など、また、ほかに何かおきてがあっても、それは、「隣人を自分のように愛せよ」という言葉に要約
    されます。は隣人に悪を行ないません。したがって、は律法を完全に果たすものです。(P564

   B あなたたちは、互いに大切にし合うこと以外、だれに対しても、何の借りもあってはなりません。人を大切に
    しているなら、その人は、律法をすべて守ったことになるのです。「不倫をするな」「人を殺すな」「略奪するな」
    「人のものを欲しがるな」、そのほかどんな掟があっても、この一つに集約されます。すなわち、「隣人を自分
    のように大切にしなさい」。人を大切にするとは、隣人に不当な仕打ちをしないということです。それで、人を
    切にすることが、律法の完全遵守と見なされるのです。」(P311〜2


 本田哲郎神父の強みは、本格的な聖書の勉強をしてきているということでしょう。上智大学神学部修士課程を修了し、イタリアに4年半滞在してローマ教皇庁立聖書研究所を卒業、新共同訳聖書の編集者、翻訳に携わり、40代後半にはフランシスコ会日本管区長にまで登りつめた人です。ギリシャ語やヘブライ語に通じ、原典にあたっての見直しなのですから、ひょっとして本田神父の聖書理解に異議を唱えられる人は、わが国にはいないのかもしれません。

 この『聖書を発見する』を読むと、キリストという方が、神という私にはわけのわからない遠い存在などではなく、世の中に光を与えるべく戦った一人の人間、偉大なる人物のお一人だったのではないのか、私には今までになく身近に感じられたのでした。

     イエスは、当時の宗教指導者であったファリサイ派の人、律法学者たちに対して、はらわたが煮えくり返る
    ぐらいの思いを抱いており、「あんたたち、おかしいよ」とつっかかっていき、いつも敵対関係にありました。イ
    エスは、かれらを決して愛したことはありませんでした。しかし、かれらを大切にしたかったのは事実です。貧
    しい仲間たち、虐げられた仲間たちを平気で罪人呼ばわりして、さらに重荷を負わせるようなことをやりつづけ
    ているかれらと、とことん対決しました。対決することによって、かれら自身に自分の誤りを気づかせたかった
    からなのです。そういう思いでガンガンつっかかっていくわけです。これは決して愛ではありません。これこそ
    大切にする(アガペー)ということです。(P230


   (キリストはどういう罪名で磔の刑に処せられたのだろうか。本田神父は釜ケ崎の二畳の間で人生を終えたら
    神として復活する。西郷隆盛の末路に似てきた小沢一郎も有罪判決が出て政界から消されたら、南洲神社、
    いや、一郎神社ができるかもしれない。でも、「私の最後は生ゴミ」、そう覚悟するドブ・ネズミ)

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
大変興味深く2編を読まさせて頂きました。
西洋(文学等)の翻訳、キリスト教、現代において、「愛」「愛する」と云う言葉を安易に使い過ぎると、私も感じていました。
「人をその人として大切にする」このことが、人間尊重の基本と思います。
mohariza
2011/02/13 16:06
「人をその人として大切にする」、聖書でいちばん大切な掟はこれだと本田神父は説明しています。何を信仰しようとかまわない、この一点だと言い切っています。釜ケ崎の活動は種まき(布教)ではないともいっています。既成宗教への挑戦ですね。カトリック教会が本田神父の考えを受け入れて変わるか、異端者として追放されるか、それも気になるところです。
damao
2011/02/14 11:19
神父の口から出た言葉は偉大だ。
しかし、言葉が神なのであり、神父は人間だ!神父が立派なわけではない。
その言葉に神の心を受け止め、その生き方を生きようとしたときに神はその人間の心に目を注ぐ。それをどう実践するかで、神の目には映し出される。果たして、本田神父はどうだろう?
この街に8年生きた一人の若い女医をなんて評価しただろうか?
ふるさとの家のミサに8年間あずかっていた”さっちゃん先生”について、神父はいま、何と言うだろうか?
大震災後のこれからの一年は、釜ケ崎が激変する。
神父はここで何をどう発信し生きるだろうか?

2011/03/21 14:16
本田哲郎神父にはカトリックの方々からは非難の声も強いようですね。自分はこの問題はカトリックやキリスト教だけの問題だけではなく、宗教者全体に問いかけられてる問題のような気がします。今の時代、どれだけの人が宗教に失望し離れてしまったことか。宗教とは何かという問題が問い直されている時代にきているような気がします。
求道者
2017/03/09 20:30

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